【党文化の解体】第6章(12)

「世界中のブルジョア政権を覆せ!」と叫ぶレーニン(大紀元)

【大紀元日本2月4日】

4.大規模な粛清を経て確立された党話
 2)党話の成り立ちと変遷

党文化の本質を見極めるには、その変わる所と変わらない所に注意しなくてはならない。共産党の理想が変わり、方針と政策も変わり、打撃の対象も変わるが、その専制独裁は永遠に変わらず、邪教の本質とごろつきの手段も永遠に変わらない。そのため、異なる段階の党話は中国共産党の政治運動と緊密に関連して異なる特徴を呈するが、どの段階の党話にも共通の核心が存在して、その核心こそ中国共産党の本質を現している。

党話の発展は下記の通り、いくつの段階に分けることができる。

(1)1919-1937、党話草創期

1919年、『共産党宣言』の完全訳本が中国ではじめて出版された。創立当初の中国共産党はコミンテルン極東支局の一つの支部にすぎなかったため、草創期の中国共産党は理論基礎から組織形式まで、ひたすらコミンテルンと同調していた。翻訳された語彙のほかは、中国共産党の特色を帯びる党話はまだ成り立っていなかった。この時の中国共産党は自らを武装しては「紅軍」といい、発祥地を「ソビエト地区」といい、奪い取った政権を「ソビエト」といい、ソ連の言いなりの面影がそのまま残っていた。

「世界中のブルジョア政権を覆せ!」と叫ぶレーニン(大紀元)

(2)1938-1949、党話が中国化する段階

中国共産党が延安に逃亡した後、党内の闘争を勝ち抜くため、毛沢東はマルクス主義に対する説明権を独占しようとした。1938年の中国共産党第6期中央委員会第6回全体会議に、毛は初めて「マルクス主義の中国化」の概念を提唱した。その後の延安整風運動を通して、毛は自らが新たに発明した党話を武器にして、政敵を討ちながら党の幹部を洗脳した。毛は「党八股」に反対しながら、自分の書いた文章の風格を基準として確立した。党の幹部はしかたなく指導者の言葉を暗記せざるをえず、中国共産党の集団語彙の雛形がこれで出来上がった。

(3)1949-1966、言語の覇権を奪い取る

1949年、中国共産党は中国本土の政権を奪い取った同時に、この土地における言語の覇権も己のものにした。標準的な言語を作り出す機関のすべて―出版、報道、学術、教育などを共産党政府が占有して、また中央宣伝部をはじめとする宣伝システム、幹部育成と組織活動のシステム、中央と各級党校など思想教育機構をも占有した。このように、党話は強制的にすべての階層、すべての年齢層の中国人にまで広められた。党話は合法化されただけでなく、また唯一の合法的な言語として定められた。それから、中国共産党は党話を持って全面的に伝統文化を打撃し始めた。

(4)1966-1976、党話の爆発的な膨張時期

文化大革命の10年間では、党話が大いに爆発し、検閲し、威力を発揮した。天地に充満する壁新聞、鋭い舌戦を繰り広げる論争、檄文、最高指示……。言語はとことんまで暴力の方向に使われ、国民は戦々恐々とする中で、言語の持つ破壊力を覚えた。党話が全面的に人間らしい言葉に取って代わり、中国人はこれで正常な人間の言葉を話せなくなった。

(5)1976-1989、正常な言葉と混同して変異する時期

「改革開放」政策が打ち出された後、中国共産党は経済と文化の面において少し規制を緩めて、一部少量の正常な言葉の使用を認めた。例えば1980年代初期には、「人道主義」をめぐる討論が当局に許容された。しかし、1949年からの30年間の強力な洗脳、および中国共産党が政治分野での独占を揺るがせにしなかったため、党話は中国人の言語システムに依然として支配的な地位を持っていた。国民は党話に対して、識別する能力と免疫力を喪失していた。

(6)1989~現在、衰退時期

江沢民時代になってから、中国は表面的な繁栄の裏に各種の社会問題が潜在し、末端の生活は困窮し、国民の道徳は日々低下し、思想は枯渇し、改革は後退し、社会は疲弊して病根がはびこり、党話の中身は一層薄くなった。「『三つの代表』を用いてわが社の屠畜仕事を指導する」という貴州市銅仁地区の某屠畜場のでたらめなスローガンは、まさに共産党統治の衰退を語っている。
江沢民時代の党話は西洋言語の語彙、科学技術用語(「××工程」など)、伝統文化の語彙(「徳をもって天下を治める」など)を導入して、没落の運命を挽回しようと企図した。大衆の中から生まれた民謡、政治風刺的な言葉が共産党の党話と大量に共生している珍現象は、今日の中国の一大特徴となって、社会の全面腐朽および民衆が絶望の中で現実をあざける心理状態を表している。

(続く)

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